DACグループ思い出リレー #37 浜田貴弘編〈中編〉
前編は浜田社長がDACに入社する前の話から石川代表のDACイズムを実感したというお話でした。中編はその後からDANに配属されるまでのお話です。
会社の未来を感じられず…
今から約22年ほど前のこと。ちょうどPRDに、現社長の石崎君と現GLD部署長の荒井君が入社した頃のことです。当時業績が悪く、土曜日も出勤して仕事をしていました。そんなとき、上司から「今から飛び込みで営業行ってこい」という指示が出ました。
当時PRDの営業は、電話からのアプローチだったのですが、いきなり何の説明もなく、「やってこい」の指示。とにかく飛び込みは確率が悪くて…。突然訪問してもだれも話を聞いてくれません。内心イマイチだなと思いながらも、会社がそういうならやってみようとは思いました。でもどうやったら上手くいくのかみんなやり方がわかりません。そこで、その上司に「ロープレをしましょう!」と提案しました。ところが、「いや、そんなの良いから行ってこい」の一点張り。
荒井君が後輩として同じチームにいたのですが、あきらかにやる気を失っていました。気持ちを察して「業務命令だから、飛び込み営業も仕方ない、ただ、めちゃくちゃ確率悪いことは分かってる。喫茶店で暇をつぶしてくれてもいいから、外出してください」と言いました。私は責任者だったので、真面目に飛び込み営業をやりました。3件の名刺はもらいましたが、こんないい加減な指示しか出せない会社では未来がないなと絶望しました。
会社が苦しいのはわかるけど、これまでとまったく違うやり方をするなら、やり方を示すか、皆で考えるか。絶対に必要です。
その日、昼食時に辞表を書いて、飛び込み営業から帰ってきて、提出しました。
慰留されましたが、一切応じずに出社最終日の前の日となりました。
ちょうど石川代表が翌日からキリマンジャロに挑戦するというときでした。
逸見さんと夜、焼肉を食べにいきました。逸見さんも引き留めてくれていましたが、私の意思が固いとわかり、
「あなたがそこまで言うならもう仕方ない。でも社長にも奥様にもお世話になったよね。そこまでしてもらったんだからご自宅に行って挨拶してきてくださいよ」
と言われました。
石川代表は辞めると決めた社員とは面談をしない方でした。
私も悩みましたが、一言だけでもお礼をという気持ちでご自宅のある我孫子に向かいました。
ご自宅につくと、翌日キリマンジャロに発つにもかかわらず、上げていただき、色々と話をさせていただきました。
叱られもしましたが、期待を込めて言っていただいたこともたくさんありました。
それでも私の意思は固く、その時は
「やはり辞めます。明日から気をつけていってきてください」と最後に伝えてご自宅を辞しました。
一人になって常盤線の最終電車に乗ったあと、考えが揺れました。
「辞めると決めた人にはもう会わない石川代表が家に入れてくださって色々と話をしてくれた・・・。このまま辞めてしまっても良いのか、再考しないといけないんじゃないか」
もともと石川代表のことをすごく尊敬していて、代表と共にいれば、自分のやりたいことや世の中に影響を与えることがもっとできると思っていたことを思い出しました。
そこで、次の日、当時のPRDのトップだった齋藤さんに自分の考えを話しました。営業の方針や休みの規程など社員の働きやすさを考えて欲しいこと、サラリーマンとしてやれと言われたらやらないといけないことはわかっているけど、会社として利益を出すための仕組みづくりのために最大限の努力をしてほしいことなどです。
そして、PRDに在籍していたのでお客様に貢献し業績を上げるため、人事関連のコンサルができる資格である社会保険労務士の資格を取ろうと勉強していたので、そのために休みを欲しいというわがままを聞いてもらい、一ヶ月休んだ後、復帰し仕事を続けることになりました。
インターネットへの転換期で事業部立ち上げ
ちょうど2000年ごろで、雑誌などの求人広告の文化がインターネットに変わっていく転換点でした。当時、会社にはPCがなくて、ネットの仕事なのにFAXで入稿していました(笑)。掲載の確認もできず、ネットカフェにいって確認したり、今では考えられないですよね。私は何故か、もともとネットの仕事が多かったんです。
そういうこともあってインターネット事業部の立ち上げをして、私と荒井くんで根付かせていったという思い出があります。元々は雑誌広告のおまけでネットの掲載を付けていたものが、徐々に雑誌はいらないからネットだけでと言われるようになり、徐々に主要の媒体となっていく過程に立ち会いました。
そんな中でPRDはぐんぐん成長し、中部・関西と全国展開を始めます。
PRD関西の部署長は私の先輩だったのですが、東京に戻られるということで私が関西に赴任することになりました。2008年9月のことです。リーマンショックが起こったのはその一ヶ月後でした。
もちろん関西事務所も求人業界の例にもれず、ガタガタになりました。
ここまで順調に来ていたのが一瞬で変わってしまいました。
それでも関西で頑張るつもりでいました。
ところが、観光広告を担当していた当時のデイリー・インフォメーション関西もなかなか業績がふるわず、石川代表が陣頭指揮をとるために関西に常駐されることになりました。
石川代表からは
「別会社でも同じ事務所に指揮をとる人間が二人いると社員が迷ってしまう。浜田は東京に戻す。」
というようなことを言われ、東京のPRDに戻ることになりました。
戻って2カ月後には、東京のPRDは人員が半分以下になりました。
リーマンショックの影響でグループの別の会社に配転していたのです。
私も当時の齋藤社長と上手く行っていなかったこともあり、DANにいくことになりました。
中編はここまで。浜田社長がDANにいくまでにこんな物語があったんですね!後編はいよいよDANに移ってから現在までのことを語っていただきました。乞うご期待ください!